「女どおしじゃない大丈夫」 -折り合い・新しい自己の獲得を援助する-

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森永 伊紀 氏

水戸さん(女性・80歳)は、ヘルパーが訪問すると、尿失禁したままストーブの前の座布団にうずくまっており、「着替えましょう」と言っても、「自分でできるから」と動こうとしませんでした。
ヘルパーは、水戸さんのトイレが終わるのを見計らって、絞ったタオルを手渡すと同時に、後ろから手早く拭くのでした。
一月ほど経って、ヘルパーが、タンスにあった洋服を見つけて誉めたところ、元気に働いていた頃の話しを楽しそうにし始めたので、聴きながら足浴をすることができました。
次の訪問から、いつでも入浴できるように湯を沸かし、風呂場で足浴をしました。

そんなある日、水戸さんは便失禁をしてしまいました。
ヘルパーは、浴室に連れて行き、衣服を脱がしてお尻を洗おうとしました。
水戸さんは、「そんなことまでダメ、臭いからダメ」とヘルパーの手を跳ね除けました。
ヘルパーが、反射的に「女同士じゃない、大丈夫!」と言うと、水戸さんは体の力を抜き、自分から壁に手をついたのでした。
そしてお尻がきれいになると、浴槽の湯を見て、「そうだよな」と言って入浴したのでした。

ヘルパーの「女同士じゃない、大丈夫!」という言葉で、水戸さんは介護を受けることに対する折り合いがつき、介護を受けながら生きていくという、新しい自己が獲得されたのです。
壁に手をつき、お尻を洗ってもらっている水戸さんは、ヘルパーに一方的に「されている」のではなく、ヘルパーが洗いやすいように自ら協力しているのです。
高齢になっても、認知症があっても、人は自分を変化させ、新しい自己を獲得し、生涯を通して発達していくことができます。
そして、それを支えたのは、利用者を受け止め、向かい合おうとする、へルーパーの真摯な姿勢と努力の積み重ねです
その後、水戸さんは、ヘルパーと一緒に炊事をするようになりました。

(ホームヘルパーの手による1000の事例研究から)

~ ヘルパーは「家族と同じ」 ~ に込められた利用者からのメッセージ

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森永 伊紀 氏

間口は狭いが奥行きのある一軒家に、和嶋(仮名)さん夫妻が住んでいます。
他県に住む長女が、母の認知症に気づき、ヘルパーの利用が始まりました。
しかし、訪問すると夫は、「妻の面倒は自分が見る」と言って、買い物だけを頼むのでした。
トイレが汚れていても「せんでええ」と掃除をさせません。
1ヶ月が過ぎたある日、ヘルパーは妻の尿失禁に気づき、タオルを探しに家の奥の風呂場に入ると、妻の失禁で汚れた衣類が山に積まれていました。
夫は「臭いのは自分が我慢すればええ」と洗濯させません。
夫は、物忘れのある妻に覚えさせようとし、イライラして怒鳴り、時に叩く様子も見られました。

しばらくすると夫は、ヘルパーに「妻が言うことを聞いてくれない」と愚痴をこぼすようになりました。
ヘルパーが、夫を誉めたり、妻をかばったりしながら、場が和み始めた時に「お茶碗拭きましょうか」と申し出るようにすると、夫婦は「あんた悪いねぇ」と仕事を頼むようになりました。
ちょうどその頃から、夫婦はヘルパーに対し、「あんたは家族と同じやね」と言うようになりました。

和嶋夫妻の「家族と同じ」という言葉には、二つの意味があります。
ホームヘルパーの援助は、利用者・家族からみれば「プライバシーの明け渡し」を伴うものであり、契約を締結したとしても、汚れた下着や自分の体を見せることには強い心理的抵抗感が残ります。
「家族と同じ」は、「家族でなければ踏み入れないようなプライバシーに関わることを許された人」と言う意味があります。
もう一つは、ヘルパーに対し「このままずっと来て、助けて欲しい」というメッセージです。
利用者・家族は、老いや障害によって生じた生活の困難や危機にあって、信頼で来る援助者を生活に取り組み乗り越えようとします。
ヘルパーは、利用者・家族のプライバシーに関わる者として信頼を築き、そして、利用者・家族からのメッセージを敏感に受け止め、援助を展開していく力量が求められます。

(ホームヘルパーの手による1000の事例研究会から)

その人らしさのテーマとなっている生活行為を大切に援助する

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森永 伊紀 氏

「母は85歳を過ぎても体はピンシャンしていましたが、『親しい友達は全部死んじゃったし、もう生きていたってしょうがないから、早く死にたい』と言うんです。
じゃあ明日死ぬかって聞くと、『いや、今日はちょっとまだね』と言う。『ひじきと油揚げを煮ようと思っているから、あれを旨く煮て食べて死にたい』(笑)。
『俺は将来この会社の社長になる』というのとは違うけれど、ひじきを旨く煮るというのも、やはり生きがいなんです。
だから僕は「じゃあひじき煮なよ」と言って帰りました(笑)。(「えれくせんと」三浦朱門氏の文章の要約)

三浦さんのお母さんは、自分ひとりでひじきが煮れなくなったら「終わり」でしょうか。
ヘルパーの援助を受けながら、ひじきを煮ることができれば、「終わり」にはなりません。
高齢者の生活の中には、自分が自分らしく生きていくテーマとなる生活行為があります。
その生活行為を、今日とどこおりなく行うことは、過去の自分と明日の自分を繋げる働きがあり、今日のような明日が来ること確信させます。高齢者が「生きる」とは、このような日常性の継続にあるのではないでしょうか

ホームヘルパーには、高齢者の多様で雑多な日常生活の行為の中から、その人の、生きていくテーマとなっている生活行為を見つけ出し、すでに失われている場合は、利用者と生活の中に手がかりを探して再生させ、又は、新たに創り出していく力量が求められます。
私たちヘルパーが、利用者の「変化」という言葉を使うとき、「変化」を、なるようにまかせた結果としてではなく、「利用者の過去から明日に繋がる今日の生活行為を、利用者とヘルパーが協力して行う中で生まれてきたもの」として使いたいものです。