「地域包括ケアシステム」の構築に、ケアと自分のイノベーションを!

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井上 由美子 氏

団塊世代が後期高齢者になる2025年。
高齢者の増大で、2014年現在9兆円の介護給付費は21兆円になると試算されている。
働く世代の減少で税収も見込めず、介護保険の危機は目の前だ。
国は危機に向けて「地域包括ケアシステムの構築」を本格的に作動させる。
 
ここではまず、「地域包括ケアシステム」の重要項目となった俗にいう軽度者切りにアプローチしてみよう。
これまで介護保険(公助)から給付されていた訪問介護・通所介護サービスが地域における助け合い(互助)に委ねられる。
社会保障審議会で最も議論白熱した案件で、“軽度者への支援が機能を維持させ重度化を防ぐ”、これが私を含む反対派の論点だった。
これに対し、不足する財源を重度要介護者に遣わざるを得ない、という推進派。
そのために、医療と介護が連携し、在宅介護を充実させていくという論点が示された。
 
これが次のテーマだ。
1960年代高度経済成長期、故郷から都市へ大移動した段階の世代。そこでは因習に縛られない個人としての自由な、いわば利己的な生き方が実現した。
この自由を団塊の世代を中心とする日本の国民は捨てることができるのだろうか。
互助となると、自分が世話になるだけではすまされない。お互い様の世界。
一方、医療・介護の連携、住み慣れた場所での在宅介護というけれど、
医療と介護のすみ分けは?
介護の専門性は発揮できるのか!
等々課題は尽きない。
公助共助と互助の間、医療と介護の間、これらの間には何が立ち上がってくるのだろう。
溝、乖離は埋まるのだろうか。
埋めるためには、介護する人、される人の間にあるものを認識し互助の方法を模索するしかない。
要介護者の利益を代弁すべく、医療など多職種の人たちとも真摯に向き合うしかない。
さあ、ケアも自分もイノベーションだ!

究極の”自立支援”に、感性と人間力を鍛えよう!

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井上 由美子 氏

安藤桃子監督の『0.5ミリ』。
ヘルパー映画と思いきや、ヘルパーを糧としている主人公と周りの人たちとの触れ合いがもたらす“人間と人生”の物語。
主人公サワちゃんは家庭も住まいも財産もなく、際どさも辞さない手練手管でヘルパー技術を武器に他人の家に入り込み寝蔵と食い扶持を得る。
その手段は、孤独な老人という狙った獲物への、“やさしさ”でも“取り入る”のでもなく、お節介から始まる。
例えば一つのエピソード。
ある老人の、自転車泥棒や悪戯を見つけ「警察に連れていく!」と脅しつつ近づき、寝食を得る。
老人が詐欺に合いそうになると身を張って守る。
そう、正義感も生き様も紛れもなく本物だ。
結局、その老人は、自分の宝物のクラシックカーを主人公に渡して自ら有料老人ホームに入る。
サワちゃんのケアは、自らも楽しみながら、老人の生きがいを呼び覚ます。
彼女自らの生きることへの貪欲さ、真摯さからでてくる、まさに対等な立場でなされる究極の自立支援だ。
彼女の類まれなコミュニケーション能力も、「学び」という観点からとらえるならば、テクニックを学ぶのではなく、感性や人間力を磨くことから身に付くものであることが示唆される。
 
『0.5ミリ』は、数年前爆発的にヒットしたフランス映画『最強の二人(ケアについて何の経験もない無教養の黒人が、食うために、相当な教養人で大富豪、首から下は麻痺状態の初老男性のケアをする話)』と通じるものがある。
これまでプロの看護師が1週間と持たなかった気難しい要介護者が、無教養極まりない、下層階級の黒人男性には心を開き、生きる喜びを取り戻す。
そこには黒人介護士の、無遠慮な同情から生まれる一緒に楽しむ、冒険する、という諂いのない姿勢があった。
 
二つの映画に共通する、豊かな感性、人間力に裏付けられた究極の自立支援に私たちは感動するのだと思う。

ケアを”すること”、”されること”の”間”』を探そう!

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井上 由美子 氏

2014年3月、私は身体微不調のため15年間の教員生活に終止符を打ち、教員前の住まいに舞い戻った。
さあ、心身を整えて新たな生活を始めようと意気込む私を、近所に住む昔からの親友は、料理の達人ともいえる腕前で私を応援。
つまり食事の世話という「ケア」の一種を提供してくれた。
互いに楽しみにしていた生活の第一歩だったのだが…。
 
“ケアとは相手に寄り添うことが基本”とされている。
だがしかし…。世話する側の大変さは想像できていたものの、される側の問題は知識でしかなかったことを思い知った。
まず神経が過敏になる。
世話する側のイライラは、そうでなくても自分の所為と思ってしまう。
そう、世話される側の負い目や卑屈という、「依存」がもたらす世界を実体験する羽目になった。
私は長年の友情が壊れてしまう恐れから、意を決して世話になりたくない、と告げた。
親友にとってそれは思いもかけない一言だったに違いない。
好意でやっていることなのにと。
それに対し、私の心の持ちようが問題なのに、その理由をうまく表現できない自分がいた。
「ケアをすること」と「ケアをされること」の間には、計らずも「依存させる」「依存する」の関係性が立ち上ってくる。
それは強者と弱者の関係でもある。
 
私たち日本人は「人」を表すとき、多くの場合「人間」と言う。
専ら「ヒト」は生物的な場合に遣い、ヒトが人間になるためには、間、距離、関係がなければならない。
だからこそ、関係のあり様が個人の生活、生き方を大きく左右する。
ケアの現場は関係性の宝庫だ。
ケアはいかに人間の尊厳を保つか、自立を支援するかが目的だが、目的を果たすためには、依存・共依存や強者・弱者という関係性を克服することが課題となる。
とすれば、人と人の“間”に“何”をおけばいいのだろうか。私の求めるケアの「質」とはそれを探し出すことなのだと思う。